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●砥部焼(陶器)の始まり
砥部焼きは江戸中期の安永6年、西暦1777年に陶祖、杉野丈助の白磁焼成の成功が現在の砥部焼きの二百数十年に及ぶ伝統と歴史の始まりと言われています。

清楚な白磁の肌に溶けこんだ藍色の絵模様の呉須絵や、素地の白さに調和した錦絵、やや厚手の飾り気のない形と材質の堅さに特色を持つ味わいは、暮らしの潤いとゆとりを思い出させてくれるとして、全国はもとより国内外に広く認められてきました。


現在、広く知られている砥部焼きは磁器です。陶器と磁器の違いは別の頁で説明しますが、「砥部焼」と言う呼び方が初めて出てくる書物に、元文五年西暦1740年に書かれた大洲藩士人見甚左衛門栄智の「大洲秘録」があり、その中では砥部焼きと呼び陶器、茶碗、鉢などを特産品と紹介しています。

また、現在でも古い窯跡からは徳利、茶碗、皿、鉢などが出土し、その作り方や絵模様は唐津焼きに似ており、陶器を作る環境に恵まれていた砥部の地では、それ以前から、陶器が生産されていたようです。
●現在の砥部焼(磁器)の始まり
砥部町は、古代から中央にもその名を知られた「伊予砥石」の産地であり、「砥の部」が地名の語源といわれています。大洲藩第九代藩主、加藤泰候紀公の頃、藩の財政を助けようと大阪の砥石問屋の勧めで、外山産砥石屑を原材料に磁器生産に取りかかるため、奉行、加藤三郎兵衛光敏や油商、門田金治に命じます。

磁器生産の大役を命じられたのが陶祖と呼ばれる杉野丈助で、外山砥石屑の運び出しに便利な、五本松村の丘陵地に登り窯を築き取りかかります。幾度も失敗を繰り返し資産も投げ出して取り組み、筑前の国へ赴き権助と言う人から「釉薬」を手に入れ帰国、初めてから約三年の苦心の末、白磁の焼成に成功しました。これが、現在の砥部焼き(磁器)の始まりとされています。


寛政年間から、次々と窯が開かれ、文政元年 向井源治が川登陶石(かわのぼりとうせき)を発見し、鉄分の多い砥石屑の原材料に代わって白磁の磁質を改良しました。 嘉永元年には 井岡太蔵がトンバリ(レンガ)を使った窯を作り、陶石を砕く大型の水車も登場しました。

明治に入り、万年で良質の原材料である「万年石」が発見され、型を使った絵付けや西洋絵の具の使用、地色が真白でなく淡黄色磁器「淡黄磁」が創出、機械ろくろも使われるようになり、地場産業としての基礎が出来上がりました。

大正に入り、第1次大戦中は南方向けの輸出が最盛期を迎え、茶碗(ライスボール)は「伊予ボール」と呼ばれ、好景気が続き窯元も急激に増えていきます。大戦後は急激に輸出が減り、一転して不況が襲い、倒産、廃業が出た時代です。


明治、大正、昭和、平成と時代の変化に応じて、砥部焼きの中心となる製品も変化していきました。火鉢や花器、食器が中心だった時代、一升壺、すり鉢、汁茶碗、汽車弁用茶器、碍子が中心だった時代もありました。

現在では、民芸調の食器類が中心で、花器、水盤、置物などを作っています。

※備考
私もこの地で生を受け、物心付いたときには砥部焼きの茶碗を使うようになっていました。
故郷を遠く離れた現在も使っている砥部焼きの茶碗は、かれこれ20年にもなりますが、飽きることなく、欠けることもなく活躍しています。

たしかに、子供の頃の記憶に「碍子」の天日干しが並ぶ光景もありますが、厳しい時代も乗り越え、一時的なブームにも流されずに培ってきた、伝統技術を磨き、努力されてきた関係者の努力で現在の砥部焼きがあるのでしょう。
砥 部 焼 き 歴 史 年 表

  1775年 安永4年  大洲藩主、加藤泰候(かとうやすとき)、砥部に磁器づくりを命ず。

  1777年 安永6年  杉野丈助(すぎのじょうすけ)磁器焼成に成功
                大洲藩が経営していた上原窯を門田金治(かどたきんじ)が譲り受ける。

  1818年 文政元年  向井源治(むかいげんじ)川登陶石(かわのぼりとうせき)を発見

  1839年 天保10年 栄蔵(えいぞう)類助(るいすけ)宗兵衛(そうべえ)絵薬を求めて長崎にゆく。

  1848年 嘉永元年  井岡太蔵(いおかたいぞう)トンバリ(レンガ)を使った窯を作る。

  1851年 嘉永4年  城戸源六(きどげんろく)素焼窯を考案
                このころ、太鼓型の大型水車が登場

  1853年 嘉永7年  坪内(つぼうち)家の水車帳に17の窯元を記載

  1857年 安政4年  瀬戸物役所、唐津役所できる。このころ、全国に磁器窯が作られ
                磁器が庶民生活の中にひろまる。

  1878年 明治11年 伊藤五松斎(いとうごしょうさい)九州から陶工を招き型絵染付を広める。
                伊達幸太郎(だてこうたろう)京都で西洋彩画を学ぶ。

  1885年 明治18年 砥部焼、清国(しんこく、今の中国)に輸出

  1888年 明治21年 下浮穴、伊予両郡陶磁器同業組合設立

  1890年 明治23年 向井和平(むかいわへい)淡黄磁を創始

  1893年 明治26年 淡黄磁、シカゴ世界博で一等賞にかがやく。

  1906年 明治39年 陶器補習学校できる。

  1942年 昭和17年 杉野丈助(すぎのじょうすけ)の功績をたたえて記念碑できる。

  1953年 昭和28年 柳宗悦(やなぎむねよし)浜田庄司(はまだしょうじ)など、指導のため砥部を訪れる。

  1976年 昭和51年 砥部焼、国の伝統的工芸品に指定される。

  1977年 昭和52年 砥部磁器業二百年祭を行う。

  1984年 昭和59年  『砥部焼まつり』はじまる。

  1989年 平成元年  砥部焼伝統産業会館できる。

  1995年 平成7年  砥部焼の地球儀が国連欧州本部に設置される。
 
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